導入事例・お客さまの声

【特別企画】合資会社 塩瀬総本家 川島英子 会長インタビュー

伝統のなかの革新

合資会社 塩瀬総本家 様(東京都中央区)

塩瀬総本家 川島英子 会長 塩瀬総本家 川島英子 会長
伝統の形成には必ず先駆者(パイオニア)がいて、 それを受け継ぎ、 磨き高めていく伝承者がいる。
1349(貞和5)年、 中国宋代に来日して奈良に住し、 初めて餡入り饅頭をつくった林浄因氏(塩瀬総本家の初代)が先駆者ならば、今なお前線に立ち業界を牽引する川島英子氏(塩瀬総本家三十四代当主・現会長)はまさに偉大な伝承者であろう。 自身は、当初この業界にまったく興味がなかったという。 しかし、 運命に導かれて当主につき、先人たちの教えのもと変わらぬ製法でお饅頭づくりに注力する傍ら、それまでの引き菓子中心の売り方から大転換して小売に乗り出すなど革新的な経営を実践してきた。
今回は、 特別に川島英子会長にインタビューする機会をいただいた。 川島会長が探求してきた「塩瀬総本家」にまつわる貴重な話題とともに、微力ながらお饅頭の安定生産の一翼を担ってきた弊社の包あん機とのエピソードなども熱く語っていただいた。
今、 669年の時空を越えて 「お饅頭」 の真の歴史が再認識できよう。


5月某日、 川島会長にお会いするため、 都内中央区明石町にある塩瀬総本家様の本社ビルを訪れた。1階フロアが本店店舗になっている。 一歩足を踏み入れると、 そこは正に現代と過去の時間がゆっくりと交差するタイムマシンの入り口のような雰囲気だった。 そして迎えてくれた川島会長は、 さながら時代の案内人。 それはそれは気さくで、お持ちの話題で現代から室町時代へと私たちを先導してくれた。 さっそくお饅頭の歴史、 塩瀬総本家様の歴史をあらためて紐解いていただこう。

―塩瀬総本家初代の林浄因氏が初めてつくった餡入り饅頭について教えてください
会長 室町時代の文献には、「粉をこねてつくった饅頭(餡は入っていないもの)を、二つに割っても良し、四つに割っても良し、必ず添え肴あるべし」と書いてあります。添えるものって何か、味噌だれと小豆の練り汁なんです。それに、肴をいれて食べるということです。この肴は、切りもの(ミョウガを刻んだものやネギを刻んだもの)と粉もの(山椒の粉とからしの粉)。つまり、饅頭を二つに割って味噌だれか、小豆の練り汁をつけてネギの刻んだものと山椒なんかを入れて食べたということですね。当時、饅頭は点心(食事)だったんですよ。塩瀬の初代である林浄因は、この小豆の練り汁というのに目をつけて、それをさらに練って煮詰めて小豆の餡をつくりだした。小豆の餡には、甘みをだすために、つる草の茎から汁をとり煮詰めてつくった、甘葛煎という甘味料を入れたそうです。こうして、点心ではなくて茶子(お茶のお菓子)として「餡入り饅頭」を誕生させたんです。その時、小豆の練り汁に甘葛煎を合わせて、甘みという感覚を持ち込んでいなければ、今の和菓子文化はなかったかもしれません。大発明だと思います。

―塩瀬饅頭(薯蕷饅頭)のルーツについて教えてください
会長 林浄因のころは、小麦粉をこねて寝かせて発酵させた皮です。「薯蕷饅頭」の始まりは、林浄因の孫にあたる紹絆という人が中国に宮廷料理を勉強しに行ったのがきっかけでしたね。そこにあった大和芋を使った宮廷料理「山薬糕」がルーツなんです。宮廷料理をあつかっているところに行けば今でも食べられます。「山薬糕」は、山薬(山芋)と糕(お米の粉)という意味なんです。まさに「薯蕷饅頭」ですよね。もちろん当時は餡は入っていませんでしたけど。そして紹絆が学んで持ち帰ってきた製法こそが、塩瀬饅頭(薯蕷饅頭)の製法なんです。今でも、伝統の製法を守り続けています。

―なぜ塩瀬の屋号を使うようになったのか教えてください
会長 紹絆が貴重な製法を持って中国から帰ってきた時には、なんと京都が見渡す限り焼け野原になっていました。そう、応仁の乱です。そこで一族が三河の国の塩瀬村に疎開しているというのを聞いて、紹絆も塩瀬村に身を寄せるんです。応仁の乱は10年間続きました、つまり一族は10年間塩瀬村に住まったわけです。そしてやっと戦乱も治まり、京都にもどって商売を再開します。その時に「塩瀬」という屋号を使うようになったとこの書き物に記されているんです。
そして私がまた調べるんです。なぜ塩瀬村に行ったのか。京都からも遠いじゃないですか。そうしたら、家系図の中に3代目の当主が三河の国の塩瀬村の豪族、富永氏のご息女をお嫁にもらったと書いてあるのを見つけたんです。富永氏の次男が地名にちなんで「塩瀬資時宮内左衛門」と名乗ったという記録もあります。要するに、うちの3代目のお嫁さんの実家が塩瀬村で塩瀬姓を名乗る家だったわけです。調べていくうちに、どんどんパズルが埋まっていくような感じでしたね。少し前ですけど、テレビ番組で「塩瀬」の歴史をたどる企画をやってくれましてね。塩瀬村のあった所にも行ってきました。ご先祖たちがここにお世話になったのかと思うと、本当に感無量でした。

―ひと口サイズの「塩瀬饅頭」誕生のいきさつを教えてください
会長 常盤会という女性皇族方の集まりがあって、東京の椿山荘で定例会を開催されていたんです。その定例会の時のおみやげとしてうちのお饅頭が使われるようになりましてね、うちの父が頭をひねり、女性でも上品に食べられる小ぶりな薯蕷饅頭を考えて出したんです。その時はまだ手づくりですよ。もちろん「志ほせ」の焼印も押していないし、一般には売っていませんでした。そしたら、その小ぶりな薯蕷饅頭に惚れ込んだ椿山荘から、うちのおみやげ品にできないかという話をいただいて、そちらにもオリジナルの焼印を押して出したりしてましたね。とっても好評でしたよ。

―川島会長が三十四代当主に就任されたいきさつを教えてください
会長 お恥ずかしながら若い時分は、菓子業界にも家業にもまったく興味がなかったんです。もちろん家業が持つ歴史も知ってました、でも大変さもよく知ってましたので、さっさとお嫁に出ちゃったんです。だから実家は渡辺姓ですが、私は川島姓なんです。やがて父、母が亡くなって、姉妹の長女だった私がやらないわけにはいかないだろうということで慣れない世界に飛び込んだんです。昭和55年。私が56歳の時です。
いろいろありましたね。父の時代というのは、ほとんどが宮内庁などからの注文が中心でした。一番印象に残っているのが、戦時中に、戦死した方のご家族に天皇陛下から「御紋菓」という打菓子をおくられていたんですけど、この「御紋菓」をうちが一手に承ってたんです。戦争が終わり、宮内庁からこの「御紋菓」をつくるために預かっていた材料をお返しした時のことです。その材料がのったトラックを見送りながら父がぽつりと「これで御用もおしまいかね」と言ったんです。実はそれから2年間、商売をお休みすることになりました。その後、戦後のブライダルブームがありましてね、ここからまたうちの商売も忙しくやらせていただくことになりました。御用達から引き菓子にかわり、母ひとりでがんばってる時代が続きました。この時ですね、いよいようちにもレオンさんの「包あん機」が来たのは。でも、母がよくぼやいていたのを覚えています。職人さんたちがレオンさんの機械をセッティングするのが面倒くさくて、内緒で手でつくっちゃってたんです。1年ぐらいは「包あん機」を飾ったままだったと言っていましたね。その後、私の時代になって、いよいよ小売に乗り出しました。新木場に工場を建てて、「包あん機」と自動で蒸してでてくる「スチーマー」を入れたんです。そうなった時には、レオンさんの機械を飾り物にしておく暇なんかありませんでしたね、最初からフル稼働でした(笑)。
みんなそうでしょうけど、最初は「どうかな」で入れてみて、使ってみたら「素晴らしい」で、その後は「なくてはならない」になっていくんですよ。

―老舗の暖簾を守ってきたお父様の教えは厳しいものでしたか
会長 父がずっと現場の人たちに言っていたのは「材料を変えるな、材料を落とすな、割りを守れ」ということ。これが塩瀬の鉄則なんです。これだけは私も肝に命じています。この前、テレビ番組の企画でフランスとイタリアのケーキ職人がうちに見学に来ました。その時に塩瀬饅頭のつくりかたを見てね、「これはレシピないんですか」って聞かれたんです。そんなものは、ありませんって答えました。これはレシピの世界じゃないんですよ。何キロに何グラムっていう世界じゃないんです。その日にお芋をする時に出る水気、それだけなんです。お米の粉の中にお芋のすったものを入れるだけですから。
そのお芋の水分だってお芋によっても違うし、季節によっても違う、その日の天気や湿気それを総合して、按配がわかる者がこねてちょうどいい状態になったものが、皮になるんです。これがうちの塩瀬の皮なんです。うちが応仁の乱の時代(紹絆の代)から600年来守っている手法ですから。だからほかではマネできないんですよ。いつも皮をこねてお芋のご機嫌をうかがいながら、空気中の湿気など条件をすべてを知って仕上げられるようになるのには、最低でも20年はかかります。これは、職人の勘だけができる技なんです。餡も難しいですよ。うちは小豆から自家製でやりますからね、十勝音更町の小豆で特別な工程で3回アク抜きしてつくります。でも、この手間をかけないと、アクの抜けた塩瀬の餡にはなりません。塩瀬の餡は品がいいと言われるのはそこなんです。和菓子にとって材料の香りっていうのは重要で、山芋の香り、小豆の香り。それと甘み。甘みも奥が深い。糖度はちゃんとないと、すぐ傷むし艶がでないですから。うちは普通のお砂糖は使いません。ザラメを使います。だからさっぱりとして、糖度はあるんだけど舌にしつこく甘さを感じさせない。「材料を落とすな」という教えは質を良く見極めるということで、自分のところのお饅頭をつくるのに、最適な材料を使いなさいということなんです。これだけこだわって、皮や餡づくりに人手を使い切るから、お饅頭を包むところぐらいはレオンさんの機械に頼らないと続かないんですよ(笑)。ただ、老舗だからといって、昔ながらの考えだけでいてはだめです。うちも、遊べる部分でちょっとずつ時勢にあわせて変化を加えていくつもりです。実は、今も次の新商品の企画を考えているところなんです。寝ても覚めても次のこと、新しいことを考えられるというのは楽しくて仕方がありません。幸せですよ。

取材を終えてあらためて思う。川島会長は重い伝統を背負いながらも常に前を向いている。後世に伝えるべきことのためには力を惜しまない、真の伝承者である。その凜とした生き方に強く感銘を受けた。

本社ビル1階本店内 小売店舗展開を始められたのは川島会長が当主時代から。本社ビル1階本店内 小売店舗展開を始められたのは川島会長が当主時代から。
川島会長が額に入れて飾られた当時の書き物をみながら解説してくれた。川島会長が額に入れて飾られた当時の書き物をみながら解説してくれた。塩瀬総本家本社(1階が本店)塩瀬総本家本社(1階が本店)
塩瀬饅頭 9個入り1,188円(税込)塩瀬総本家様の看板商品。「志ほせ」の焼印を押して一般向けに商品化したのは、川島会長。塩瀬饅頭 9個入り1,188円(税込)塩瀬総本家様の看板商品。「志ほせ」の焼印を押して一般向けに商品化したのは、川島会長。



【塩瀬古城跡の石碑】三河国設楽郡塩瀬村(現・愛知県新城市)
この石碑の文字は私が書いたんですよ。
ここは、塩瀬資時宮内左衛門っていう人のお城があった跡です。テレビ番組「謎学の旅」で嵐山光三郎さんが「塩瀬」の歴史をたどる企画をやってくださって。ここまで私を連れて行ってくれたんです。そしたら、この土地を持ってる方が、私が中国に「林浄因」の記念碑を建てたエピソードを知っていて、塩瀬縁の地に石碑を建てたいので、塩瀬の名前を広めている私にぜひ文字を書いてほしいと頼みに来られたんです。それで僭越ながら書かせていただいたんです。

【弊社会長・林虎彦とのエピソード】
私が栗饅頭の中心に一粒の栗を入れたお饅頭をつくりたいから、そういう機械をつくってくださらないって、レオンさんにお願いをしてたんです。なかなか思うように進まなかったんですね。それで東京の食品機械工業展の会場で営業の方に「なかなかできてこないじゃないの!」って強めに言ってたんです。そしたら、すぐ後ろに当時社長だった林虎彦さんがいらっしゃったんですよ(笑)。それで、あらあらって言って。虎彦さんも恐縮して「早速やりますから」って言ってくれましてね。もちろん約束を守ってちゃんと機械をつくってくださいましたよ。これがその時の写真でね、「あらまあ」っていう忘れられないエピソードなんです。でも、やると言ったらやり切るところは、私と似てらっしゃるのよね、だから虎彦さんと私は、波長が合うのかもしれません(笑)。
【レオン自動機に期待すること】
レオンさんは自社の機械ありきではない、お客さまのお菓子があってそれにあわせるような機械を仕上げてくれる。そして機械は、工場に納まったら機械自身の主張をしないの、主役はあくまでも出来てくるお菓子であって、自分じゃないってのがわかってるのよね。
機械ありきじゃなく、お菓子ありきなのよ。そういう姿勢。そこに努力を惜しまないところ。そこが私がレオンさんに惚れ込んでいるところです。
林虎彦さんは、とても研究熱心で、お客さまの要望に沿うためなら、どんな工夫もやぶさかでないわけよね。これからの方もそこを貫いていっていただきたいですね。

 
つつむ No.154号 (2018年7月号)掲載
※文章内の表現・表記は、すべて取材当時のものです。
(C) 2014 RHEON Automatic Machinery co.,ltd.